三淵嘉子に夫は2人!息子の現在や家系図もまとめた!

三淵嘉子さんアイキャッチ画像

裁判官の、三淵嘉子(みぶちよしこ)さん。

三淵嘉子さんプロフィール画像
出典:https://president.jp/

女性として初めて弁護士・判事・裁判所所長となった三淵嘉子さん。NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公「猪爪寅子」のモデルとして一躍脚光を浴びます。

今回は三淵嘉子に夫は2人!息子の現在や家系図もまとめた!

という事で、三淵嘉子さんの結婚や相手の旦那さん、子供について情報をまとめました。

目次

三淵嘉子の現在の夫は三淵乾太郎!

三淵嘉子さんは1956年に8月に入籍しています。

まずは三淵嘉子さんの結婚相手についてわかっている情報を見ていきましょう。

三淵嘉子の結婚相手の顔画像や名前、職業は?

三淵嘉子は裁判官である三淵乾太郎と子連れ再婚している

三淵嘉子さんの結婚相手は最高裁調査官だった三淵乾太郎さんだとわかっています。

三淵嘉子さん夫婦
出典:https://portfolio-ai.com/

三淵乾太郎

  • みぶちけんたろう
  • 1906年12月3日 生まれ
  • 1985年8月22日 没(78歳)
  • 福島県出身
  • 東京帝国大学法学部卒業
  • 判事
  • 父は初代最高裁判所長官・三淵忠彦
  • 弟は千代田生命保険社長・萱野章次郎と大東京火災海上保険常務・三淵震三郎
  • 「虎に翼」星航一(岡田将生さん)のモデル

1956(昭和31)年8月、最高裁調査官だった三淵乾太郎と再婚します。

お二人で撮った写真、しかもボーリングやゴルフ、海外旅行を楽しむ姿がたくさん残されています。

とても仲が良く、アクティブでステキなご夫婦だったのではないでしょうか。

馴れ初め

お二人の馴れ初めは、三淵嘉子さんの名古屋から東京へ異動に伴い裁判官として生活をスタートさせた頃

三淵嘉子さんの判事室をたびたび乾太郎さんが訪れていたんだそうです。

というのも、三淵嘉子さんの恩師と乾太郎さんの父である三淵忠彦さんは知り合いという間柄。

三淵忠彦さんの民法本の改訂作業を手伝うなど交流を深めていた彼女は、忠彦さんの死去に際し、三淵家を弔問しています。

この時に、乾太郎さんをはじめとする三淵家の人々と知り合ったのではないかとみられています。

夫婦仲は?

乾太郎さんとの再婚によって三淵嘉子さんは

三淵嘉子さん

自分でも驚くほど心に余裕が生まれたことに気がついた

と語っています。

最初の夫と死別以来、幼い息子を抱え、一家の大黒柱として気を張ってきた三淵嘉子さん。

弟たちの自立と、三淵乾太郎さんと再婚したことにより、心から安心できたのではないでしょうか?

ただ、おふたりは再婚時に

・乾太郎さん→1男3女
・嘉子さん→息子・芳武さん

と、前妻・前夫との子供を連れた子連れ婚でした。

平穏な家庭ではない

後年は継子との関係も良好であったようですが、当初は母娘の仲はなかなか難しいものだったようです。

嘉子さんにべったりな父・乾太郎さんの態度が気にいらない…と長女・那珂(なか)さんとは特に激しくやり合ったそう。

父はもともと、好き嫌いが激しいです。しかし、反面、父はいさかいが嫌いです。自分の好みと違っても、母が強く出ると『うん、うん』と言うのです。意見をぶつけ合うのでなく自分が引き下がります。

嘉子さんも、息子・芳武さんが証言するように「気性の激しい人」だったようなんですね。

ゆえに、「もっとお母さんに強く言ってくれればいいのに」と那珂さんは思ったこともあったそうです。

逆に、乾太郎さんは嘉子さんの連れ子・芳武さんにだいぶ気を遣っていたようです。

なぜなら、ご自身も5歳の時に実母を病気で亡くし、父の後妻に育ててもらった環境にあったため寂しい思いをさせないように…という思いがあったとか。

嘉子さんは「本音でぶつかり」、乾太郎さんは「そっと見守る」形で、家族になっていったんですね。

まわりの人達も、おふたりを「仲睦まじい夫婦」と評しています。

  • 仕事は理想主義、家庭や日常には無頓着なタイプの乾太郎さんを嘉子さんがフォロー
  • 職場で「観音菩薩」と呼ばれた嘉子さんだが、酒豪の一面もあり、夫は「うわばみ姫」と呼んでいた

仕事の面だけではみられない一面を、お互いに許容しあっていたご夫婦のようです。

嘉子さんの実子・芳武さんいわく、

初めての女性の法曹の一人で、男の社会で戦っていた母。
安心して全てを話し、相談できる夫を得ましたから、幸せでしたね

同じ職業ということもあり、いろいろと頼りになるパートナーでもあったようです。

すれ違いの結婚生活

裁判官夫婦として、転勤のたびに単身赴任となって全国を移動する生活。(※現在は多少考慮されるそうです)

乾太郎さんは裁判官として3年ごとに転勤があったため、あまり一緒に生活する期間がなく別居婚でした。

乾太郎さんは日常生活に無頓着…といわれましたが、身の回りのことは自分でする方だったそうです。

オシャレな方でもあるので、洋服も自分で買っていたとか。

ある時、官舎の隣の方におかずのおすそ分けをされ、翌日食べたら傷んでいてお腹を壊したこともありました。

これも単身赴任せざるを得ない立場ゆえのアクシデントといえるでしょう。

また、三淵嘉子さんが東京家庭裁判所に勤めていた時、乾太郎さんが浦和地方裁判所長の着任が決定します。

妻として、同じ裁判官として、夫の栄転を喜ぶべきところなのですが、別居することが決まると

三淵嘉子さん

離れ離れの生活を想像して何とも言えない寂しさが押し寄せ胸を締め付けた

仕事中にも漂う悲壮感に、同僚たちは「何事?」と心配するほどだったそうです。

「亭主元気で留守がいい」なんて別世界の話なんだろうね!

そんなすれ違い夫婦の憩いの場所が、小田原にある「旧三淵邸・甘柑荘(かんかんそう)」でした。

三淵邸・甘柑荘(かんかんそう)は、乾太郎さんの父親が、昭和初期に別荘として建てた近代数奇屋風住宅

別荘の名前は、庭に植えられた密柑(みかん)や檸檬(レモン)、金柑(きんかん)などに由来

このステキな場所を二人の集合場所としていました。

ご夫婦はこの場所をとても気に入っており、晩年はここで過ごしたそうです。

退職後のふたり

1979年に定年退官した三淵嘉子さんは、夫と共に旅行を楽しんでいます。

また、現役時代には多忙を極める夫の健康のため、二人でゴルフを嗜むようにもなったそう。

三淵嘉子さん

運動不足ではないかしら?心のリフレッシュも必要でしょう

三淵嘉子さん夫とゴルフ
出典:https://portfolio-ai.com/

ただ、夫に勧めようにも、身近にゴルフを教えてくれる人がいませんでした。

すると、「それならば私自身が覚えればいい!」と夫に教えるために、自ら率先してゴルフを習得します。

二人の共通の趣味となったゴルフですが、長女・那珂さんいわく、

父は理屈でやるゴルフ、母は力で飛ばすゴルフ

だったそう…イメージ通りかもしれません。

そして乾太郎さんの退官後は、夫の健康祈願を兼ねて、毎週日曜日に一緒にお寺参りをされています。

というのも、ハードスケジュールをこなす乾太郎さんは体調を崩しがちとなり、一時は歩行困難な状態にまで陥りました。

「効果的な治療法がある」と聞けば、仕事の合間を縫って現地まで赴くこともしょっちゅうだったようです。

その甲斐あって、乾太郎さんは徐々に回復。

1982年(昭和57年)の元日には、明治神宮へふたりで散歩しながら初詣に出掛けた事が日記にしるされています。

夫への老いを感じながらも、「できるだけ長くこんな日は続けばいい」と嘉子さんは考えていたそうです。

ただ、二人の楽しい時間はそう長くありませんでした。

晩年の二人

1983年2月、肩や胸の痛みを訴え病院で検査を受けた嘉子さんは、骨の悪性腫瘍(がん)の一種「骨肉腫」を発症

この時、夫の乾太郎さんも体調を崩しており、夫婦で入退院を繰り返す生活になっていました。

三淵嘉子さんは1984年5月28日骨肉腫により69歳で逝去されています。

そして、妻の後を追うように乾太郎さんも翌年の1985年8月22日に78歳で永眠されています。

三淵嘉子さんの生前の希望で、遺骨は

  • 前夫・和田芳夫さんの墓(丸亀・本行寺)
  • 甘柑荘の裏にある霊寿院

の2ヶ所に分骨されています。

そして、乾太郎さんは霊寿院で愛妻の眠る隣のお墓で、やすらかに眠っています。

激動の時代を、駆け抜けたご夫婦も今ごろは、静かに子孫の幸せを見守っているのではないでしょうか?

三淵嘉子の最初の夫・和田芳夫の死因は?

三淵嘉子さんの最初の結婚相手のことも見ていきましょう。

三淵嘉子の最初の夫、死別の原因は?

最初の夫・和田芳夫の死因は、持病の肋膜炎の悪化による戦病死

2人の結婚は、昭和16年(1941年)11月、太平洋戦争の開戦が間近に迫るころでした。

三淵嘉子さん、最初の夫・和田芳夫さん結婚写真
出典:https://portfolio-ai.com/

和田芳夫(わだよしお)

  • 香川県丸亀市出身
  • 明治大学夜間部卒業
  • 東洋モスリンに就職(紡績会社・1941年に鐘淵紡績と合併)
  • 性格:非常に優しく、真面目、善良な人
  • 持病があり、就職時に肺を悪くして一年くらい療養していた時期があった

和田芳夫さんは、三淵嘉子さんの麻布の実家に書生として居候していました。

和田芳夫さんの従兄(いとこ)と三淵嘉子さんの父親が同郷で旧制丸亀中学の同級生という間柄でした。

当時、裕福だった実家・武藤家では同郷の書生が入れ替わりながら三人ほどいたそうです。

書生とは…
明治・大正期に、他人の家に住み込みで家事を手伝いつつ勉強する学生

嘉子さんの弟、武藤輝彦さんいわく「最も気立てが優しくていい男だった」そうです。

結婚までの流れ

二人の交際が始まったのは1940年(昭和15年)ごろ。

当時嘉子さんは司法試験に合格して2年ほど経った頃で、26歳。

当時の女性の結婚平均年齢である23歳前後を過ぎた娘を心配し、両親は縁談相手を見つけようと奔走していました。

「女だてらに」弁護士になった娘の、嫁ぎ先がないと心配した父親が「誰か好きな人はいるのかい」と聞いたところ

三淵嘉子さん

和田さんがいい

と、気恥ずかしそうにモジモジしながら嘉子さんが答えたそうです。

当時の和田芳夫さんは就職し、武藤家を出て独立していました。

武藤家にはたまに遊びに来るくらいだったので、ふたりが付き合っていたわけでもないようです。

さらに、

  • 書生の中でも一番おとなしくてもの静かで、温和な性格の芳夫さん
  • 活発で、はっきりと物を言うサバサバとした性格の嘉子さん

と、正反対ともいえる二人だっただけに、周囲の誰もが嘉子さんの好きな相手に驚きを隠せなかったそうです。

娘が恥ずかしそうに答えた態度から、和田さんへの想いを理解した父親が、芳夫さんの元へ急ぎ

娘があなたのことを気に入っている。どうだ

と頼んだことから、交際が始まったようです。

しかし、結婚までそのままとんとん拍子に進まず、なかなかプロポーズしてくれない芳夫さんのことを

三淵嘉子さん

意気地がない

などと友達にぼやいていたりもしたそうです。

やがて交際から1年以上たった1941年11月に二人は結婚します。

短い結婚生活

戦時下の結婚生活だったため、決して楽ではなかったけれど、夫婦は仲睦まじく過ごしていたそうです。

夫婦のパワーバランスは、嘉子さんの圧勝かと思えば、弟さんの証言で

芳夫さんは、それはそれはいい人でしたよ。まじめでおとなしくて、でも言うことはしっかり言いました。
姉が尻に敷くような関係ではなく、仲のよい夫婦でした。

と、やさしいけれど、芯のある男性と強いけれど夫をたてる女性という感じだったようですね。

昭和18年(1943)には長男・芳武さんが誕生し、一家は武藤家の実家に越してきます。

戦時下で「開店休業状態」だったとはいえ、共働き夫婦だったので子育てには助けが必要だったのでしょう。

昭和19年、芳夫さんのもとに召集令状が届きますが、持病により徴兵されませんでした。

ところが、戦況が悪化し翌年の昭和20年に再度招集され、こんどは出征を余儀なくされます。

弟さんいわく「好人物があだになった」と、持病を理由に強く断ることをしなかったそうです。

招集後すぐ、中国出征中に持病の肋膜炎が悪化した芳夫さんは、終戦後上海から引揚げ長崎の陸軍病院に収容

肋膜炎とは
肺を包む膜である胸膜に炎症が起こる病気で、胸痛や呼吸困難を引き起こす

ここで危篤状態に陥った芳夫さんの報せは、まず本籍地の香川県に告げられます。

その後、東京で夫の帰りを信じて待つ嘉子さんの元へ戦死の一報が届きます。

結局、死に目には間に合わず、1946年5月23日、無念のうちに和田芳夫さんは長崎の病院で亡くなりました。

愛する夫を亡くした嘉子さんの悲しみは深く、泣きはらして顔がむくみ、紫色に変色したほどだったそう。

当時の嘉子さんを知る同僚が

夫が死ぬと、こんなにつらいめにあうのか。それなら、私は結婚はするまい

と思ったほどでした。

現在の和田芳夫さんと三淵嘉子さんはというと…

「元夫・和田の墓にも入りたい」という生前の強い意向で、『分骨』という形で一緒のお墓に入っています。

再婚した夫との生活も大切なものだったけれど、最初の夫との生活もまた同じように幸せなものだったのでしょう。

そして、三淵嘉子さんにとって本当に大切で大好きな人のひとりだったことがよくわかりますね。

三淵嘉子の息子や家系図もまとめた!

三淵嘉子の子供は前夫との間に息子が1人

三淵嘉子さんの実子は、和田芳夫さんとの間に生まれた芳武さんひとりです。

三淵嘉子さん・息子の芳武さん
出典:https://ameblo.jp/kuraramother/

和田芳武さん

  • 1943年うまれ
  • 2020年没 (享年77歳)
  • 東京大学卒業
  • 寄生虫研究者・生物学者
  • 東京大学伝染病研究所寄生虫研究部で佐々学氏に師事
  • 1974年より東京女子医科大学寄生虫学教室所属

芳武さんに関する情報は少なく、画像も上の若い頃のものしか見つけられませんでした。

ただ、お父さんによく似た穏やかな笑顔から、温厚な人物だったのではないかと思われます。

実母・嘉子さんと義理の姉・那珂さんの激しい口論の際、筋の通らないことをまくしたてだした母に対し

和田芳武さん

いい加減にしないか

と諌めたこともあったそうです。

そんな芳武さんは、親と同じ法曹の道は選ばず、東京大学の医学部を出て医師の道に進んでいます。

後の両親に加え、義父の祖父や周りの人間も法曹界の人ばかりなのに?…と思いがちですが

実は嘉子さんの父方の実家は、香川県丸亀市で代々丸亀藩の御側医を務めていた医者の家系だったのです。

御側医とは?
藩主(大名)のそばに日常的に仕える医師で、基本的には大名もしくはその家族を専門的に診察し健康を管理する医師の役職。

しかし、嘉子さんの父・貞雄さんは医師になることなく上京し、東京帝国大学法学部を経てエリート銀行員になりました。

こういうのも隔世遺伝の部類に入るのでしょうか?

芳武さんは、当時の日本で最も自由と言われるような「玉川学園の小学校」に通っていました。

さらにそんな学校の枠からもはみ出してしまうくらいの自由奔放なタイプだったようです。

頭の回転が速く、賢い子で、授業中にふらりと外に出て虫取りに行ってしまうような自由人でした。

そして、芳武さんが麻布中学校の2年生の時に母・嘉子さんが再婚。

嘉子さんは和田から三淵の姓に変わりましたが、芳武さんは「和田」姓を名乗っていました。

しかし、これは再婚に反対だとか拒否といったようなことではなかったようです。

先にも触れましたが、息子として一人で闘い続けてきた母が、頼もしい伴侶に巡り会えたことをとても喜んでいます。

成人した後は、「寄生虫研究者」として活躍した芳武さん。

東京大学伝染病研究所寄生虫研究部に所属し、1966年ごろから芳武さんの発表した生物学論文が多数確認できます。

・グッピーの生態学的研究 I : 日本の温泉地において自然繁殖するグッピーについて
・電波追跡によるハブの行動研究   など

1974年以降は東京女子医科大学で研究を続けています。

母・嘉子の看取り

嘉子さんが体調を崩し、検査入院した際も芳武さんが主治医より説明を受け、「がん」の告知を本人にしたそうです。

それが嘉子さんの希望だったそうですが、危篤の際も病院に駆けつけ、なんとか最期を看取ることができました。

嘉子さんが息を引き取った直後、母の髪を撫でながら、戦時中に苦しかった疎開先で母がよく歌っていた「戦友」という曲を口ずさみます。

闘う母の生涯を讃える気持ちにも感謝する気持ちにもなっていたかもしれません。

芳武さん自身も2020年前後に亡くなられていますが、死因などの詳細はわかっていません。

三淵嘉子の家系図

三淵嘉子さんは実家も嫁ぎ先も、そうそうたる顔ぶれのそろった立派な家系です。

三淵嘉子さんの家系図
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

結婚・死別・再婚と二度の結婚を経験したことで、3つの「家庭」をもつ三淵嘉子さん。

それぞれに分けて確認してみましょう。

武藤家

三淵嘉子さんの祖父母にあたる武藤直言さん・駒子さん夫妻。

香川県丸亀市で金貸しや借家貸しなどを営む裕福な名家で、直言さんは市会議員としても活躍していました。

ただ、夫妻には子宝に恵まれず、直言さんの姪にあたるノブさん(嘉子さんの母)を養女として迎えます。

武藤夫妻は、裕福な家庭ながら倹約家で駒子さんも性格のキツイ女性だったため、養女のノブさんは下働きのような生活だったとか。

地元の丸亀高等女学校を卒業したノブさんは、養父・直言さんのいとこにあたる宮武良策さんの息子と1913年に結婚

それが嘉子さんの父である宮武貞雄さんでした。

三淵嘉子さん父・貞雄さん
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

武藤夫妻にすれば、貞雄さんに跡取りになってもらいたいための結婚だったと思います。

が、貞雄さんは結婚後、「台湾銀行」のシンガポール支店へ赴任。

貞雄さんは、「男女尊卑」などの古い考えにとらわれず、新しい考え方をする人でした。

この時代に、娘にも「ただのお嫁さんになるな。手に職を付けろ」と言って聞かせたほどです。

古い考えによって自由を縛られた青春時代を過ごした母・ノブさんにとって、貞雄さんは白馬の王子様だったかもしれません。

夫婦仲はとてもよかったそうです。

三淵嘉子さん家族・武藤家
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

上の画像は、嘉子さん・和田芳夫さんの結婚に際して撮影された家族写真です。

下段中央のふたりが武藤貞雄さん・ノブさん夫妻で、右端が嘉子さん・嘉子さんの左上が和田芳夫さんになります。

武藤家には嘉子さんの下に4人の弟たちがいました。(左下から時計回りにに長男・次男・三男・四男)

長男・一郎さん

優秀な一家の長男は、嘉子さんの2歳下になる1916年4月生まれのしっかり者で、やはり優秀な人でした。

横浜商業学校(現在の横浜国立大学経済学部・経営学部)を卒業後、日立製作所に就職

結婚もし、妻のお腹には初めての赤ちゃんも授かっていましたが…

1944年6月、従軍し沖縄に向かう輸送船「富山丸」に乗船していた一郎さんは、鹿児島県付近で米軍の攻撃を受けて撃沈

27歳という若さで戦死されています。

次男・輝彦さん

1921年4月18日生まれの輝彦さんは、花火師として広く知られた人物です。

三淵家次男・輝彦さん
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

戦時下ということもあり、繰り上げで東京帝国大学文学部美学科を卒業し、陸軍に従軍。

幸い無事終戦を迎え、新聞記者や政党の秘書などを経験しました。

その後「日本煙火芸術協会」設立に尽力し、同協会の事務局長や日本煙火教会の専務理事などに就任しています。

1988年にはグランドキャニオン(アメリカ合衆国)で日本式の打ち上げ花火を披露しています。

また、輝彦さんの妻・温子(はるこ)さんは、嘉子さんの晩年に付き添っていた事でも知られています。

嘉子さんの長男・芳武さんが小学生の頃は、嘉子さん親子と同居し、多忙な嘉子さんにかわって面倒をみていました。

輝彦さんは、2002年10月に81歳で永眠されています。

三男・晟造(せいぞう)さん

1923年(ごろ)生まれの晟造さんは北海道大学医学部を卒業し、日産診療所で長く医師として活躍

1971年から1984年の13年間、日産厚生会診療所の所長も務めており、仏像関連の本も複数出版されています。

兄弟の中では情報が少ない方ですが、四男の証言で

長男を除いてみな80歳以上まで生きた

とありますので、おそらく晟造さんも80歳を超える長寿で人生を全うされたと思われます。

四男・泰夫(やすお)さん

1928年うまれの泰夫さんは、長女の嘉子さんとは一回り以上の歳の差があります。

武藤泰夫さん
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

幼い頃にご両親を亡くした泰夫さんにとって、年の離れた会え・嘉子さんは

姉であり、母であり、父でもあるという特別な存在だった

とのことで、一家の大黒柱として東奔西走していた嘉子さんが目に浮かぶようですね。

戦時中、岡山市の「第六高等学校」へ通っていた泰夫さん。

福島に疎開していた姉・嘉子さんの様子を見に行った時、疎開先の劣悪な環境に絶句し、かける言葉がなかったそうです。

戦後は「林野庁」で長年勤務し、その後民間企業で働いています。

退職後、90歳近くまで森林の保護活動を続けつつ、嘉子さん関連の取材対応もされていました。

2021年に92歳で亡くなっています。

和田家

嘉子さんの最初の夫・和田芳夫さんと築いた家庭のことは先に触れましたので割愛します。

ひとり息子の芳武さんは、叔父たちと同様、母・嘉子さんに関する取材を多く引き受け、後世に語り継ぐことに貢献されています。

ただ、結婚やお子さんに関する記述が見つからない為、生物の研究に生涯を捧げたと見るのが一般的なようです。

つまり、嘉子さんの現在に続く子孫は存在しないと思われています。

三淵家

嘉子さんの二度目の嫁ぎ先、三淵家は日本で「初代最高裁判所長官」を務めた三淵忠彦さんを家長とする名家です。

乾太郎さん父・三淵忠彦さん
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

嘉子さんの夫・乾太郎さんは忠彦さん・トキさん夫妻の長男として誕生。

さらに二人の弟と一人の妹という四人兄弟でした。

トキさんは子どもたちが幼いうちに亡くなっており、忠彦さんは1922年に白鳥静(しずか)さんと再婚

二人の間には男児が1人誕生し、三淵家は5人兄弟となりました。

次男・章次郎(しょうじろう)さん

乾太郎さんの2歳下になる弟・萱野章次郎さんは、祖父の代で滅せられた萱野姓を再興

千代田生命保険の社長を務めます。

兄・乾太郎さんより6年前の1979年に亡くなっています。

三男・震三郎(しんざぶろう)さん

1911年うまれの震三郎さんは早稲田大学法科を卒業後、大東京火災海上保険の創設者・反町茂作さんの娘さんと結婚

ご自身も大東京火災海上保険の常務取締役を務めています。

長女・多摩(たま)さん

1914年うまれの多摩さんは、三淵家と親交のあった日本開発銀行監事・石渡慎五郎(いしわたりしんごろう)さんと結婚されています。

五男・粲四郎(さんしろう)さん

1923年うまれで、乾太郎さんとは17歳離れていた異母弟の粲四郎さん。

残念ながら、彼は戦時下に病気で亡くなっています。

そして、三淵乾太郎さん・嘉子さん夫妻には乾太郎さんの連れ子が4人いましたね。

三淵嘉子・三淵乾太郎一家
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

乾太郎さんの最初の妻・井沼祥子(いぬましょうこ)さんとの間に

  • 那珂(なか)さん
  • 奈都(なつ)さん
  • 麻都(まつ)さん
  • 力(ちから)さん

の4人のお子さんをもうけています。

ですが、1944年に領事として北京に赴任するころに、祥子さんは結核に罹患

それから10年程寝たきり同然の闘病生活を送り、1955年亡くなられました。

長女・那珂(なか)さん

ふたりの再婚時には既に他家へ嫁いでいた那珂さん。

夫は裁判官の八木下巽(やぎしたたつみ)さんで、彼は退官後も弁護士として活動しています。

実家に残した弟妹への心配りで、嘉子さんともやり合った那珂さんですが、料理レシピの貸し借りをする一面もあったようです。

次女・奈都(なつ)さん

奈津さんは、再婚当時21歳。

実家で生活していましたが、その後、判事・盛岡茂(もりおかしげる)さんとご結婚

三淵嘉子さん、孫娘と
出典:https://drama-blog.net/archives/79974

こちらは、孫にあたる奈都さんの娘さんを愛おしそうに抱っこしてる画像ですね。

奈都さん夫婦も嘉子さんの臨終の際は、病室で立ち会ったそうですが、嘉子さんのあまりの苦しむ様子に

見ていられない

と席を外すほど心を痛めていたそうです。

医師から「(嘉子さんの)人工呼吸処置を止めてもいいか」と言われた際に

(実子である息子)芳武さんが来るまでは続けてください

と頼んだが茂さんでした。

茂さんのおかげで、芳武さんは無事母の最期に間に合い、看取ることができました。

三女・麻都(まつ)さん

晩年の嘉子さんの介護を献身的にしていたのが、麻都さんです。

再婚当初18歳になっていた麻都さんも、後に結婚して家を出ます。

嘉子さんが病に倒れ、食欲がない時にいろいろ手をつくしわがままを聞いていたのも麻都さん。

ワガママ・文句はかなりのものだったようですが、それすらも「かわいいものだ」と感じていたそう。

長男・力(ちから)さん

「(嘉子さんを)ひとことで言うなら、猛女」と評した力さん。

再婚当時、末っ子の力さんは多感な14歳。

嘉子さんとの関係は良好だったそうですが、実母・祥子さんを慕っていたこともあり、内情は複雑だったよう。

ただ、姉の麻都さん同様、我の強い継母に驚きつつも

そういうところもかわいげがある

と語って「個性」だと認識していたようです。

嘉子さんの退官後、力さん夫妻と金沢旅行に出かけており、この時のことを嘉子さんは楽しそうに日記に記しています。

激動の時代を、三つの家庭を支え、支えられて駆け抜けた三淵嘉子さん。

新しい時代を切り開く先駆者は、どの時代も大変ドラマチックなものになってしまうのですね。

まとめ

今回は三淵嘉子に夫は2人!息子の現在や家系図もまとめた!

という事で、三淵嘉子さんの結婚や相手の旦那さん、子供ついての記事をお届けしました。

  • 三淵嘉子の夫は裁判官の三淵乾太郎。お互いに連れ子を連れての再婚でしたが、ひとりですべてを背負い闘ってきた三淵嘉子さんにとって、仕事に理解があり安らぎを与えてくれる存在を得たことは、何にもかえがたい幸せだったようです。
  • 三淵嘉子の最初の夫・和田芳夫の死因は戦病死。もともと持病のあった芳夫さんにとって、戦時中とはいえ従軍することすら自殺行為のようなものでした。幼い息子と妻を遺し、死に目にも会えなかった無念ははかりしれません。
  • 三淵嘉子の息子は最初の夫・和田芳夫との間に生まれた和田芳竹さんひとり。生物学者となった芳武さんは、人生を研究に捧げ、結婚して子供を持つことはなかったのではないか…といわれています。

以上の内容がわかりました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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