俳優・歌手の武田鉄矢(たけだてつや)さん。

「海援隊」のボーカルとしてデビューし、後に俳優として『3年B組金八先生』などの名作に出演しました。
今回は武田鉄矢の妻・節子の顔写真がこちら!馴れ初めや子供情報もまとめた!
という事で、武田鉄矢さんの結婚や相手の奥さん、子供について情報をまとめました。
武田鉄矢の妻・節子の顔写真がこちら!
妻・節子は熊本県の農家出身で、当時は銀行員として勤めていた!
「金八先生」でお馴染みの武田鉄矢さん。
1949年4月11日生まれで、年齢は2025年で76歳になります。
そんな武田鉄矢さんは、私生活では1974年10月27日に一般女性と結婚。
お相手は山田節子さんという方でした。
そして気になる顔写真がこちらです。

とても綺麗な方ですね!
身長167cmの武田鉄矢さんとかなり差があるように見えるため、節子さんは小柄な方なのかもしれません。

節子さんは結婚当時は21歳ということで、1953年生まれ。
武田鉄矢さんとは4歳差であり、2025年で72歳を迎えます。
節子さんは熊本県の出身であり、実家は農家であったそう。
武田鉄矢さんも福岡県の出身であり、九州をルーツとしていることも関係を深めたのかもしれないですね。

一部報道では節子さんは銀行員として勤めていたこともわかっています。
海援隊が売れない時代には節子さんが金銭的に武田鉄矢さんを支えたこともあったそうですよ。
また2025年3月10日放送の『徹子の部屋』に武田鉄矢さんが出演した際には、

家事一般が(僕は)ほとんどできないもんですから、それで叱られてばかりで……。女の人は極意を持ってますね、自分の家事に
と語る場面もありました。
節子さんは家事全般を得意としている方なのでしょう。
家庭内では節子さんが武田鉄矢さんを引っ張っているのかもしれないですね!
『節子への手紙』は妻を歌った楽曲
海援隊には『節子への手紙』という楽曲があります。


曲名からも察せられるように、実はこの曲は妻・節子さんについて歌ったもの。
節子さんに届いた母親からの手紙をモチーフとしているのだそうです。
この曲の歌詞には節子さんについての情報が散りばめられています。
例えば
母さんは節子が内気な女の子だから
しっかりしたサラリーマンの男の人と
一緒になってくれると思ってました
という歌詞からは、
- 節子さんが実は内気な女性であったこと
- 母親は武田鉄矢さんとの結婚を不安がっていたこと
などがわかりますね。
全体として両親の素朴な優しさに溢れており、節子さんが大切に育てられていたことがわかる歌詞となっています。
その優しさは節子さんにも受け継がれていて、そんなところを武田鉄矢さんも魅力に感じたのかもしれませんね。
武田鉄矢と妻・節子の馴れ初めは?
妻・節子が海援隊のファンだったことをきっかけに交際へと発展した!
ここからは武田鉄矢さんと節子さんの馴れ初めを紹介したいと思います!
妻・節子は海援隊のファンだった!
武田鉄矢さんと節子さんは元々は歌手とファンという関係性であったそうです。
結成当初の1971年、武田鉄矢さんがリーダーを務める海援隊は福岡県の博多を中心に活動をしていました。


一方の節子さんは隣県の熊本県出身ということで、海援隊の存在は早くから耳にしていたのでしょう。
もしくは節子さんの勤めていた銀行が、博多区周辺にあった可能性もありますね。
節子さんは海援隊の熱狂的ファンだったそうで、コンサートではいつも最前列に立つほど。
そして武田鉄矢さんもそんな節子さんの存在に気づいていました。
しかしプライベートでの関わりはなく、あくまでも歌手とファンというだけの関係に過ぎなかったそうです。
交際のきっかけは武田鉄矢のナンパ?
あるとき、そんな2人に転機が訪れます。
武田鉄矢さんが当時、片思いしていた女性の卒業式にこっそり向かったところ、その式はすでに終わっていたそうです。
がっかりして帰ろうとしたところ、偶然にも会場から出てきたのが節子さんでした。
そこで武田鉄矢さんは咄嗟に



君のために東京から帰ってきた
と嘘をついて、節子さんをデートに誘ったそう。
いわばナンパのような形から、2人の交際は始まっていったのでした。
節子さんからすれば複雑かもしれませんが、思わぬところで再会できたのは運命と言えそうですね!
結婚式の引出物は『節子への手紙』のレコード
その後も交際は順調に進み、1974年10月27日に2人は晴れて結婚。


結婚式では引き出物として、先ほども紹介した『節子への手紙』のシングルレコードが贈られたと言われています。
『節子への手紙』は当時はまだ発表間もない新曲だったため喜ばれたことでしょう。


特に節子さんの両親は、自分たちのことを歌った楽曲であるため感動もひとしおだったのではないでしょうか。
夫婦で乗り越えたどん底時代のエピソード
そんな幸せそうな結婚式の一方で、武田鉄矢さんは結婚後のどん底時代についても振り返っています。
海援隊は1973年にリリースした『母に捧げるバラード』がヒットし、翌年の紅白歌合戦に初出場。
![母に捧げるバラード [EPレコード 7inch]](https://geinou-kekkon.jp/wp-content/uploads/2025/09/hahanisasagerubarado-300x297.jpg)
![母に捧げるバラード [EPレコード 7inch]](https://geinou-kekkon.jp/wp-content/uploads/2025/09/hahanisasagerubarado-300x297.jpg)
しかし以降、ヒットには恵まれず、その翌年の大晦日には原宿の鉄板焼き屋で深夜まで皿洗いのアルバイトをしていたそうです。
そのアルバイトは妊娠6~7ヶ月だった節子さんと共に行っており、そしてテレビでは紅白歌合戦がテレビから流れていました。
自分もいたはずの華やかな舞台を横目に見て、武田鉄矢さんは



俺はこんな所で何をやっているんだろう
とひどく落ち込んだと後年になって語っています。
ただその帰り道、青山学院近くの坂に差し掛かったとき、節子さんが



(この風景を)よーく見とこう
と突然言い出したそう。
武田鉄矢さんが



何を?
と聞くと、節子さんは



ここ、どん底だから
と答えたそうです。
本来、妊娠中にアルバイトをする羽目になったら、不満を口にしても仕方がないように思えます。
ただ節子さんのこの言葉には武田鉄矢さんを絶対に支えるという覚悟があるように感じますね。
その後、武田鉄矢さんは映画『幸福の黄色いハンカチ』で俳優としての新境地を開拓。
ドラマ『3年B組金八先生』と主題歌『贈る言葉』の両方が大ヒットし、不動の地位を獲得していきました。
節子さんの支えがあればこその躍進だったのかもしれませんね。
武田鉄矢の子供情報もまとめた!
武田鉄矢には娘が2人いて、楽曲で名前の由来が語られている!
ここからは武田鉄矢さんのお子さんについての詳細を紹介したいと思います!
武田鉄矢には娘が2人!
武田鉄矢さんと節子さんのあいだには、娘が2人いることがわかっています。
武田鉄矢さんの娘に関する情報は少ないものの、名前と生年月日については絵本『雲の物語』により明らかとなりました。


この絵本は武田鉄矢さんの著作で、娘2人が絵を担当しています。
著者として「武田菜見子・空見子」という名前が確認できるため、これが娘の名前で間違いなさそうです。


また著書のデーターベースでは、
- 武田菜見子:1977年生まれ
- 武田空見子:1980年生まれ
という情報も確認できます。


これらの情報をまとめると、武田鉄矢さんの2人の娘は
- 長女・武田 菜見子(たけだ なみこ):1977年生まれ(48歳)
- 次女・武田 空見子(たけだ くみこ):1980年生まれ(45歳)
ということになりそうですね。
菜見子・空見子の名前の由来は?
長女・菜見子さんの名前の由来は、海援隊の楽曲により明らかとなっています。
その楽曲とは1978年に発表された、その名も『菜見子』。


この曲には
君をナミコと名付けたのは僕が菜の花を見ていた時に生まれた子だから
輝く日本の星にならなくても野に咲く花になるように
という一節があります。
当時、武田鉄矢さんは仕事帰りに遠くの畑に咲く黄色い菜の花を



いいもんだなあ
と眺めていたそう。
そのとき背中を叩かれて振り返ると親戚のおばさんがいて、そこで長女の出産を教えられたといいます。
このエピソードから推測するに、次女・空見子さんの名前の由来も、
だと考えられそうですね。
武田鉄矢と娘のエピソードは?
菜見子さんと空見子さんについては、一般の方ということもあり詳細は明らかになっていません。
ただ娘さん達は
というエピソードがあるそう。
そのため2人とも会社員として働いていたと見るのが妥当かもしれません。
また2011年に武田鉄矢さんは心臓手術のために入院することになりました。
その際には
など、父親思いの一面もあるようです。
今後、娘さんたちについて武田鉄矢さんから語られることがあれば、ファンとしても暖かく見守りたいですね。
まとめ
今回は武田鉄矢の妻・節子の顔写真がこちら!馴れ初めや子供情報もまとめた!
という事で、武田鉄矢さんの結婚や相手の奥さん、子供ついての記事をお届けしました。
- 妻・節子は熊本県の農家出身で、当時は銀行員として勤めていた
- 妻・節子が海援隊のファンだったことをきっかけに交際へと発展した
- 武田鉄矢には娘が2人いて、楽曲で名前の由来が語られている
以上の内容がわかりました。
最後までお読みいただきありがとうございました。