「ブギの女王」と呼ばれた笠置シヅ子さんには、夫として語られることの多い男性がいました。

その人は吉本興業の創業者・吉本せいさんの次男、吉本穎右さんです。
ただし、2人は婚姻届を出す前に死別しており、穎右さんが吉本興業の社長を務めた事実もありません。
穎右さんを失った13日後、笠置シヅ子さんは一人娘を出産し、歌手活動を続けながら育てました。
笠置シヅ子の夫は吉本穎右?2人は法律婚前に死別
吉本穎右さんは、笠置シヅ子さんの夫として紹介されることが多い人物です。
2人が深く愛し合い、結婚を約束していたのは事実ですが、戸籍上の夫婦にはなっていません。
法律上の夫ではなく、結婚を約束していた婚約者です。
吉本穎右は9歳年下の婚約者
笠置シヅ子さんは1914年8月25日生まれ、吉本穎右さんは1923年10月26日生まれで、年齢差は9歳でした。
出会った頃の笠置シヅ子さんは人気歌手、穎右さんは早稲田大学で学ぶ学生です。
立場も年齢も異なる2人でしたが、交流を重ねるうちに、姉と弟のような親しさが恋愛へ変わっていきました。
婚姻届を出す前に穎右が死去
2人は結婚の準備を進めていましたが、婚姻届を出す前に穎右さんが亡くなりました。
吉本家との話し合いが続くなかで穎右さんは結核を患い、療養生活に入りました。
笠置シヅ子さんは生涯独身を通し、穎右さんとの娘を一人で育てています。
吉本穎右は吉本興業社長ではなく創業者の息子
インターネット上には「吉本穎右は吉本興業社長」とする説明がありますが、これは経歴の取り違えです。
穎右さんは吉本興業を築いた吉本せいさんの次男で、後継者として期待された人物ですが、社長には就任していません。
母は吉本興業を築いた吉本せい
吉本せいさんは、夫の吉本泰三さんとともに寄席の経営を始め、現在につながる吉本興業の土台を作った人物です。
夫の死後も事業を広げたことから、女性興行師の先駆けとして知られています。
穎右さんは、その吉本家に生まれた御曹司でした。
後継者候補が社長と誤解された
穎右さんは、大学在学中から吉本家の後継者候補でした。
後継者候補という経歴が、社長就任歴と混同されています。
資料では穎右さんは1946年に早稲田大学を中退して吉本興業の仕事に入り、翌1947年に亡くなったため、社長として経営した時期はありません。
笠置シヅ子さんが社長夫人だったという説明も、同じ理由で正確ではありません。
早稲田大学で学んだ穏やかな青年
穎右さんは早稲田大学に通い、学生生活を送りながら、吉本家の将来を背負う立場にありました。
笠置シヅ子さんの自伝や2人を扱った評伝では、落ち着いた人柄と若者らしい素直さが伝えられています。
笠置シヅ子と吉本穎右の馴れ初めは1943年の名古屋
2人が初めて顔を合わせたのは、1943年6月28日です。
自伝や評伝に基づく法人記事では、2人の出会いを1943年6月28日としています。

公演先で偶然出会った2人
当時の笠置シヅ子さんは、名古屋の劇場「太陽館」で公演していました。
公演の合間に俳優・辰巳柳太郎さんを訪ねた際、その場にいた若い男性が穎右さんだったといいます。
笠置シヅ子さんが28歳、穎右さんが19歳のときの出会いでした。
この日は短く言葉を交わした程度でしたが、翌日に再び会う機会が訪れます。
東京へ戻る列車で距離が縮まった
笠置シヅ子さんと穎右さんは、名古屋から東京へ戻る同じ列車に乗りました。
紹介を受けて席を共にし、道中を過ごしたことが交流の始まりになったと伝えられています。
年齢差があったため、笠置シヅ子さんは当初、穎右さんを弟のように見ていました。
手紙と訪問を重ねて恋人へ
出会いの後、2人は手紙を交わし、会える時間を大切にするようになりました。
笠置シヅ子さんは公演で各地を移動し、穎右さんには学業があったため、いつでも会える関係ではありません。
それでも交流は途切れず、1944年の冬頃には将来を約束する間柄になっていきます。
「私たちの情炎は火と燃えさかりました」
PRESIDENT WOMAN Online(笠置シヅ子の回想を紹介)
戦時下の恋と短い共同生活
2人の交際期間は、戦争が激しさを増した時期と重なります。
笠置シヅ子さんは、洋楽を基調とした歌や派手な動きを制限されながらも、舞台に立ち続けていました。
空襲で生活の形が変わった
1945年5月の空襲後、笠置シヅ子さんと穎右さんは、一時期同じ屋根の下で暮らしています。
ただし、現在の感覚でいう2人だけの同棲生活とは少し違います。
戦災で住まいを失う人が相次ぐなか、関係者もいる住まいで共同生活を送った短い期間でした。
終戦後は東京と大阪に離れた
終戦を迎えても、すぐに落ち着いた家庭を作れる状況にはなりませんでした。
穎右さんは吉本家の仕事を担うため大阪へ戻り、笠置シヅ子さんは東京を中心に歌手活動を続けます。
2人は離れて暮らしながら結婚を目指し、吉本家との話し合いが続く間に穎右さんの病状が悪化しました。
笠置シヅ子と吉本穎右が結婚できなかった理由
2人の結婚に対する吉本せいさんの考えは、資料によって説明が異なります。
反対があったことは複数の資料で語られていますが、その条件や理由には違いがあります。
吉本せいの反対理由は資料で異なる
笠置シヅ子さんが年上の人気歌手だったことや、後継者の妻に求められる役割との違いが反対理由として挙げられることがあります。
一方、娘・亀井ヱイ子さんの証言を扱った番組や記事では、笠置シヅ子さんが芸能界を退くなら結婚を認める方向だったという話も伝えられています。
反対の条件と経緯は、資料によって異なる形で伝えられています。
妊娠後も婚姻届を出せなかった
1946年、笠置シヅ子さんは穎右さんとの子供を妊娠しました。
2人は子供の誕生を待ちながら結婚を望みましたが、穎右さんの病状が悪化します。
穎右さんは婚姻届を出す前の1947年5月19日に亡くなりました。
笠置シヅ子は結婚後も歌手を続けたいと望んだ
笠置シヅ子さんは、結婚を望みながら歌手活動も続けていました。
吉本穎右の死因は結核、23歳で死去
吉本穎右さんは、若くして結核を患いました。
当時の結核は治療が難しく、多くの人の命を奪った病気です。
1947年5月19日に帰らぬ人に
穎右さんは1947年5月19日、結核のため23歳で亡くなりました。
25歳と紹介される場合もありますが、1923年10月26日生まれという記録から満年齢を計算すると23歳です。
当時の資料には数え年の表記もあり、25歳と紹介されることがあります。
笠置シヅ子さんは出産を控えて東京におり、最期に立ち会うことはできませんでした。
お腹の子供を気にかけた最期
穎右さんは病床でも、笠置シヅ子さんと生まれてくる子供のことを案じていたと伝えられています。
娘・亀井ヱイ子は父の死から13日後に誕生
笠置シヅ子さんは1947年6月1日、娘の亀井ヱイ子さんを出産しました。
父・穎右さんが亡くなった5月19日から13日後のことです。
「エイ子」ではなく亀井ヱイ子
娘の名前は記事によって「エイ子」と表記されますが、近年の番組や舞台の公式ページでは「亀井ヱイ子」と記されています。
「ヱイ子」という名前には、父・穎右さんの「穎」の音が受け継がれています。
吉本家に預けず自分で育てた
穎右さんの死後、娘を吉本家側で育てる話もあったと伝えられています。
しかし、笠置シヅ子さんは自分の手で育てる道を選びました。
笠置シヅ子さんは歌手活動を続けながら、娘を育てました。
子供は娘1人
笠置シヅ子さんの実子として公に確認できるのは、亀井ヱイ子さん1人です。
再婚した記録はなく、その後に別の子供をもうけたという公式情報もありません。
娘・亀井ヱイ子の現在は?2026年も公の企画に参加
亀井ヱイ子さんは、2025年と2026年に母の人生を伝える番組や舞台へ参加しました。

BS朝日の番組で母を語った
2025年12月と2026年6月に放送されたBS朝日「ザ・偉人伝」では、亀井ヱイ子さんのインタビューが紹介されました。
番組は、婚約者との死別、娘の出産、歌手活動と子育てを取り上げています。
2026年6月にも本人のインタビューが放送されました。
2026年の舞台にも協力
2026年1月には、南座で「わが歌ブギウギ-笠置シヅ子物語-」が上演されました。

松竹の公式公演情報には、亀井ヱイ子さんの名前が「協力」として掲載されています。
出産後に「東京ブギウギ」が大ヒット
穎右さんを亡くして娘を出産した1947年、笠置シヅ子さんは歌手活動へ戻りました。
出産した年に録音した代表曲
笠置シヅ子さんは1947年に「東京ブギウギ」を録音しました。
日本コロムビアの公式プロフィールによると、同曲は1948年1月に発売され、大ヒットしています。

「ブギの女王」として娘を育てた
「東京ブギウギ」に続き、「ジャングル・ブギー」「買物ブギー」などが人気を集め、笠置シヅ子さんは「ブギの女王」と呼ばれました。
全国の舞台に立ちながら、一人娘を育てました。
43歳で歌手を退き俳優へ
笠置シヅ子さんは、歌と踊りの衰えを感じたことや娘との生活を考え、歌手としての第一線を退きました。
日本コロムビアの公式プロフィールでは、1955年に録音し、翌1956年1月に発売した「たよりにしてまっせ」が最後のレコードとされています。
その後は俳優として映画やテレビドラマで活躍し、芸名の表記も「笠置シヅ子」に改めました。
笠置シヅ子は1985年に死去、2026年も舞台と番組で紹介
笠置シヅ子さんは1985年3月30日、70歳で亡くなりました。
吉本穎右さんとの交際は、1943年6月の出会いから1947年5月の死別まで4年に満たない期間でした。
朝ドラ「ブギウギ」のモデルになった
笠置シヅ子さんは、2023年度後期のNHK連続テレビ小説「ブギウギ」のヒロインのモデルになりました。
ドラマは実在人物の人生を土台にしたフィクションであり、登場人物名や細部は史実と同じではありません。
それでも、歌手が興行会社の御曹司と出会い、子供を授かりながら死別する大きな流れには、2人の経験が映されています。
舞台と番組が史実を伝え続ける
2026年には舞台「わが歌ブギウギ」が上演され、BS朝日の番組でも生涯が特集されました。
番組では亀井ヱイ子さんが母との生活を証言し、舞台では制作に協力しました。
笠置シヅ子の婚約者は吉本穎右、娘は亀井ヱイ子
吉本穎右さんは、吉本興業創業者の次男で、笠置シヅ子さんと結婚を約束した婚約者です。
- 吉本穎右さんは結婚を約束した婚約者で、法律上の夫ではない
- 吉本興業創業者・吉本せいさんの次男だが、社長には就任していない
- 2人は1943年6月28日に名古屋で出会い、帰京列車をきっかけに親しくなった
- 2人は婚姻届を出す前に死別し、法律上の夫婦にはならなかった
- 穎右さんは1947年5月19日に23歳で死去し、娘は13日後の6月1日に誕生した
- 娘・亀井ヱイ子さんは2026年に番組インタビューと舞台協力で母の人生を伝えた
笠置シヅ子さんは穎右さんとの娘を出産し、歌手活動を続けながら一人で育てました。
2026年には、亀井ヱイ子さんが協力した舞台と、本人の証言を収録したBS朝日の番組が公開されました。
